昭和51年8月31日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第90節
上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。
昨日、鶴見教会からいつも、八波という本を送って頂くんですけど、その本をちょっと読ませて頂いておったら、(ていせい孝)という見出しで、平尾という方が書いておられるところを読ませてもらい。(ていせい)というのは、例えば、住んでたものを持っておる、もう、あれはあの人の(てんせい?)だという風に申しますね。そういう(てんせい?)。孝は考える。
その中に、例えば、シナの孔子とか孟子とかという人は、人間の性は善なりと説いておる。人間ていうものは、本当は善だというわけ。そすと、その次の時代に出た、やはりシナの人は、人間の性は悪なりと説いておる。そういうようなことを、世界、だいたいこの方は心理学の研究をされた先生です。
ですから、世界中のその真理学者がいろいろに説いて来ておることを書いておられます。その中に、アメリカのある真理学者がこういうことを言っておると書いてる。なるほどと思ったから、私ここに書き止めさせて頂いた。人間の内的生活を支配する法則は、神の声であり、この神の声に謙虚に耳を傾け、それに従って生きて行くことが真の人間としての生き方と言うべきである、と言うのです。ね。
人間の内的生活を支配する法則は、神の声であると言っとる。神の声に謙虚に耳を傾け、それに従って生きて行くということが、真の人間としての生き方と言うべきであろうと言うのです。人間というものは、ここに教祖が、匹夫の凡人からと、こう言っておられますね。
やはり、自分の我情我欲を中心にした生き方になるならば、それは、整然ではなくて、やはり悪である。けれども、神の声を聞きながらそれに素直に耳を傾けていく生き方をするならば、それは、なるほど性は善なりという、いわゆる、天地金乃神様の一部分としての人間氏子ということになるのです。ね。神の言うことを素直に耳を傾ける、ね、そういう生き方をする、と。ね。
神様の一、これには、神の一部分だと言っておられますですね。人間は神の一部分だ、と。けれども、神の声を素直に聞いて行かなければ、そういう生き方を身につけて行かなければ、やはりその性は悪になってしまうというのです。なら、そこで、んなら、ここに御神縁を頂いて、まあ、私の話をこうやって日々聞いて下さって。だから、私は皆さんにこう聞いて頂いておることを、そのまま神の声として、もし皆さんが素直に耳を傾けることになったら、ね、もう間違いなく神の一部分としての人間。人間、その性は善なり。
言うならば、神の氏子としての真の生き方が身について来るだけではなくて、そういう神の氏子としての働きを頂き、そして現すことも、また出けるということが言えますですね。ああ、あれは合楽の大坪という人が話しよるとと言うたんではいけません。
やはり、あれは神の声として、皆さんが、ね、素直に耳を傾ける。そして、その生き方を自分の生き方にして行くという訳であります。ね。ですから、匹夫の凡人からと言われるように、もう、生まれると同時に欲が付き悪が付き、ね、言うなら我情我欲で固められたような私たちが、たまたま御神縁を頂いて、合楽に御信心を頂くようになってこの方、その何十年間の間に付いて来た我情を我欲を取り外すということは、神の声を素直に聞いて、それを行じて行くうちに、取ろうではなくて、いつの間には取れてくるのである。
神の声というのは、教えというのは、そういう風に出けておるのである。我情が我欲があっては、本当の心の中に助かるということが頂けないことやらが分かって来るのである。ね。だから、それが段々、外れていく。そこんところに、私はやはり下から上へ水を流すように、ある意味においては難しいと思います。
けれども、その辛抱をして行くうちに徳が受けられると言っておられます。神の声を聞きながら、その神の声をそのまま、自分の生活の上に頂き現して行くという生き方をさせて頂いて、様々な難儀を例えば通って行っても、その難儀の中から、ね、神のお示しのまにまに、言うならここで言う神様任せ、親先生任せの生き方をし続けて行くならばです、その辛抱して行くうちに身に徳が受けられる。
身に徳を受けた時が、もう神と同じということになって来るのじゃないでしょうかね。皆さん、本当にここでは御理解を頂いておられるがです、神の声として本当に頂かなければですね、あの、勿体無いです。なぜかて、本当に神の声だから。(笑)昨日、研修の時に、皆に私話したことでしたけれども。昨日はあの、大蔵省は人間の口みたいなものでという御理解でしたよね。だから、それを私は、ね、合楽教会は人間が本当に幸せになって行くために、ね、天地に還元して行く一つの場として、ね、行くならば必ず、まあ、おかげが受けられるというようなお話を致しましたですね。
皆さんがお供えをなさっておられる。そのお供えが喜びいっぱいで、ね、去年が100円お供えが出けよったら、今年は200円お供えが出けるようになった。200円がお供えが出けるようになったら、だんだんおかげを頂いて、300円のお供えが出けるようになった。これは、間違いなく天地への還元だ。
これは、私はどこでもという訳にはいかん。合楽教会のことしか分からん。だから、合楽教会はそれこそ、ね、お金を頂いて行くことの為の、言うならば口を見たようなものでということになる、ということを昨日は聞いて頂いたんですね。ね。教祖様のような生きられ方ということをすれば、例えば、十俵納めれば良い(じょう?)のお参りでも、ね、今年は良う取れたからと言うて、それに一俵もニ俵も添えて出されるような生き方が出ければいいですけれども、私どもはまだまだ、匹夫の凡人ですから、税金ぐらいなことならば、少しはインチキをしても、少しは値切ったり区切ったりしてからでも良いけれども、合楽教会に納めるのは、値切ったり区切ったりしてはいかん。もう、いよいよ、というような話をしましたね。
私はその御理解を頂き終わってから、あの、本当に合楽での御理解は神の声だなと思うことは、あの、正義先生がすぐ朝、こちらお届けをしまして、昨日が税金を納めなければならない日であって、しかも、ああいう大きな仕事をしておりますから、税金も沢山な金額になるわけです。けれども、いかにその、まあ、皆さんがご承知のように、なら真面目で立派な生き方をする人であっても、何か知らん、本当にもう一生懸命で貯めた金ん中からガバーっと納めやんとじゃけんで、付いて行こうごとまではなかろうばってんですね、そんな気持ちもしょうと思うんです。ね。
ところがです、昨日、それをおくり合わせを頂いて納めるようにちゃんと出けておって、昨日納めに行くというところに、昨日の御理解を頂いたわけです。もう、本当にすっきりと、それこそ、これだけの税金が納められるということが有り難いと思うて納められることが出けるという、ここでお礼のお届けがありました、昨日の朝の御祈念の後に。まるきり、正義先生一人のための御理解のようであったごとあるけれども、実はそうじゃない。皆が同じことなんです。ね。たまたま、昨日、税金を納めねばならんようになっておったというだけのことです。ね。
ですから、それこそ付いて行こうごたる気持ちで納める金、出す金というのは、もう、それには天地へ対する還元ということにはなりません。ね。もう、その金は死んでしもうておる。それに一杯の喜びを添えて出させて頂く時に、それは天地への還元にもなろう、それが生きた働きをして、また、そのくらいなことではない、言うならば、自分のお金であるなら、お金の友達と連れて、また返って来るでしょう。
そういう働きがあるのです、還元とはそういうことなんです。毎朝、御祈念の後に中村さんが参ってみえます、中村、あの千本杉じゃない、あそこは(おいわけ)ですか。してもう、今日はもう、心に引っかかってならんことがある。実は昨日、市役所からその、税金を言うて来て、納めんでおったら通帳金ですかね、それが付いて、それを納めろという、あれが来た、と。
というのは、もう、どうも考えても、去年よりかあんまり多かから、これは間違っておりゃせんだろうかと思うて、電話をかけた。ところが、やっぱり間違うとったらしいですね。だからですね、もう、よかよかで払いよるならば、そげな間違いもあるですから、やっぱ言うてみなきゃいかんですね。
それで、電話でもう、大変あちらは大人しいようにしておられるけれども、非常に気持ちが、気が短いです、気短ですね、中村さん。ほれで、もう、向こうの方にギャフン、その自分達が間違えといてから税金、そして、それにその、(延滞利子?)ですか、それが付いて、とにかくそれを納めろということは、どういうことかと言うて、えらいその電話で喧しい、まあ、言うた。
けれども、日頃、信心頂いておる者がこげな風で良かじゃろうかと思うて、気に引っかかってたまらんでおって、昨日お届けがあったから、それでおかげを頂いたのって、やっぱ言うて良かった、喧しゅう言うたっちゃ良かったつばい、それはうんと値切ってからいっちょ払わんのち言うて、まあ、昨日は、昨日の御理解を頂いておるから、それが言えるわけ。
だから、今日の御理解を頂いてごらん、アンタ方は間違うとらんよち、まあ、言うたことでしたけれども。そういうようなことから申しましてもです、ね、皆さんがなるほど神の声だと頂かん訳には行けないような事実があるということですよ、合楽の御理解は。ね。
だから、その合楽の御理解を神の声として素直に耳を傾けるという姿勢を先ずは作らなければいけないということであります。だから、とんぼとんぼどん頂きよったっちゃ、本当の言うならば、ね、性は悪になってしまうです。その性は善であり、いや善どころか、もう神様そのものである。ね。
天地の親神様の一部分である人間というようなおかげを頂くということは、ね、やはり、そういう様々な問題を通して、ね、辛抱して行くうちに身に徳が受けられる生き方を身に付けて行かなければいけない。昨日、ちょうど研修が3時からあります。昨日はお参りがずっと続いておりましたが、ちょうど3時前の、2時50分か、2時50分から55分、5分間の間、あの、お参りやら御取次が切れたんです。
もう、3時前5分になると、また、研修を受ける人達がぞろぞろやって来ますからね。その5分間という間が、まあ、ちょうどお参りも欠げておった、もう、それこそひっそりかんとしておりました、5分間。もう、本当にひっそりかんとしておった。そういう時に私はあの、普通だったら、かえってジーッとここに座っておることが大変有り難いんです。次々と、まあ、けただましい御取次などもありますし、もう、本当に追われておるような感じですけれども、ここにお参りがちょっと途絶える。
その間は、自分一人だけが悦に入っておるというか、有り難い気持ちになれれることと、それとはまた、反対のことがあります。昨日は、その反対な方で、もうやれやれというのでした。今まで、そこに沢山の人が御理解頂きよった。次々と御取次を頂いて、そして皆頂き終わって、帰ってしもうた。ああ、これで済んだかと思ったら、またお参りがあった。
そして、御取次をさせて頂いて、もう、その人が帰ったその後の5分間、3時の研修をする10分前から、その5分間の間だけが、まあ、もう何か知らん、私は昨日は、もう肩がこって肩こって、私は肩がこると頭が痛くなる。昨日、だから久富さんの奉仕を受けたのも、肩をしっかり揉んで下さいと言うて、肩を揉んでもらったようなことでしたけれども、やっぱり頭が痛い。それから、もう、押せにゃおられんように体が、まあ、難儀を感ずるわけです。ね。
そういう時には、有り難くなろうと思うても、なかなか有り難くなりませんです。ね。それから、私はいつも、そういう、まあ、色んな時に、ここの引き出しに入れております、(閻魔?)、(閻魔さんです、閻魔)という、福岡の( )先生の句集を波多野さんから頂いております。で、それを、まあ、神ながらにいつも開かせて頂くと、そこに、その今の自分の心というようなものが頂くわけです、句の中から。
まあ、私は俳句をしたことないけれども、好きですからその、好きなその句の中から、自分の心の状態を的確にいつも頂くです。昨日もそんな訳でしたから、ちょっと句集を開いてみた。そしたらね、何とこういうような句を頂いた。(ひざかりや、こそりともせぬながろうか)と。ね。(ひざかりや、こそりともせぬながろうか)。ね。ここのお広前が、このお屋敷が広ければ広いほどです、もう、あの、(ひだかり)、あの、まあ、(音もことんないごたるしんかん?)としておる時です。
昨日のその5分間がちょうど、こんな感じでした。もう、どこでも、それこそ物音一つせず、もう、子供の声もしない。もう、その本当、5分間の間でしたけれども、そういう感じの時でしたが、その句に頂くのがね、(ひざかりや、こそりともせぬながろうか、と)。
それを頂いた途端にです、あの、それこそ新しい血が体中に走る思いが致します。もう神様が、私がこのように、例えば今日はきついということでも、ご承知だなということです。私がそこにジッと辛抱して、(おしい?)をしとることを神様がご覧になっておるんだなということです。ね。
そこに、いわば神様の働きを受けておる。けれども、人間はやれやれと言うたり、体がだるかったり、きつかったりすると、ね、神様が抜けてしまったような感じがあるけれども、神様の方は抜けではござらんということが感じられます。ね。それは5分間ですけれども、そういう、今度は新たな喜びに浸っておる、そこへ、もう、研修ですから、もう、いつもより、また有り難い研修もさせて頂くことになりました。
そして、昨日の朝頂いておる、あの、御理解のもう一段も、私はあの、あの御理解は昨日、もう非常に説こうとして説きにくい御理解なんです。大蔵省は人間の口を見たようなもので、という教祖の御理解の中にも、もう、二遍とは説かれん、一遍説いたら、もうそれだけで、というようなのがありますけれども、合楽の場合はそういうのが、もう繰り返し出るですね。
もう、普通でなら説かれない御理解です。同じこと言うて説くなら何遍でん説かれようけれども、新たな角度から説くということは、もう、大変至難と思われるような、昨日も私はそうでした。ところが、昨日はあのように、また角度を変えた御理解だったでしょう。ね。
と言うて今度は、ここだけは金光教の信心の独壇場だというような御理解は、また繰り返し繰り返し頂くでしょう。ね。いよいよ説きにくい御理解と、もうそれこそ、例えば御理解三節とか、ね、天地日月の心になること肝要だと、ああいう御理解なんかは、もうそれこそ、どれだけ頂いたか分からんくらいに頂くでしょう。だから、合楽の場合はどうでもやはり、合楽、あの、御理解一つ説かせて頂くでも、いよいよ深い、広い説き方をせなければならない御理解と、普通では神の叡智によらなければ説けない難しい御理解とがある。そういうのが、こう、合楽では頂けるようだねと言うて、昨日は研修の時に話したことでした。ね。
その中に、私は昨日の御理解は、もう、あの御理解は昨日の朝の御理解で、もう、完璧と思うくらいに思うておりました、あの御理解を頂き終わってから。ところが、御祈念が終わって、皆さんが帰られたその後に、久留米の佐田さんから電話がかかってきた。で、今朝の御理解を頂きながら、御神眼を頂きました。
それが、どういうことだろうか、ということでしたから、それを聞かせて頂いてから、また一段と有り難いという、もう一段、深い、広い意味合いのことになって参りましたことを、昨日は研修の時に聞いてもろうた。というのは、どういうことかと言うと、その、御神眼に頂かれたのがね、御理解を頂きながら、これは教祖様がお使いになっておった肌地盤だ、肌着だというのだそうです。
はあ、あの時分にこういうような肌着があっただろうかと、頂きながら思いよった。ね。そうしてです、その肌着が何か羊毛ですね、羊の毛で作ったかのように、ふんわりと柔らかな感じに見えてくるところで、その御神眼が終わったと、こう言うのです。
私は、それを頂いてからです、本当にその、いわゆる昨日の御理解のもう一段深めるということだった訳ですけれどもね。ね。そん時に私は、あの、すぐ感じたことは、もう、二十年も前だったでしょうか。椛目の時代、もう、ちょうど四時の御祈念を終わってから下がらせて頂いておるところに、今はもう亡くなられましたけれども、善導寺から村山さんという燃料をする人がお参りして来よりました。
その村山さんがちょうど参り合わせとって、私が羽織を取ったり袴を取ったりしておるもんですから、その袴をきれいに、こう畳んで下さる御用をしておられながらです、親先生、畏れ入りましたと言うのですよ。どうしたんですかっち言ったら、本当に勿体無い、親先生のこの夏袴がもう、こんなにボロボロになって、布施だらけでもう、本当にボロボロになっておるわけ。まだ、その袴は取ってありますが、夏袴でした。
ね、ところが、こういうボロボロになっておる袴でもです、先生がお召しになっておると、素晴らしい袴を履いておられると、いつも側で見ておりましたと、こう言うのです。そのことを、私は昨日頂きました。ね。例えば、お粗末なものを身に付けとっても、着手がよかりゃ良う見えると言うでしょうが。
ボロボロに破れておるその袴であっても、私がこうして御結界でそれを着けておる時には、ああ、素晴らしい袴を履いておられるように見える。脱いでそこに置いたら、まあ、勿体無い、こういうボロボロな袴をお履きになっとると言われたことがございましたがです、ね、教祖様が例えば始末に始末、倹約に倹約をなさって、もうそれこそボロボロになるように肌着を着ておられるけれども、その肌着がいかにも、ね、その羊毛で作った肌着のように柔らかに見えたと言うのである。同じです。ね。
そこで、んなら、昨日の御理解の中からです、ね、必要なものが必要に応じて頂けれるといったようなお話を致しましたよね。それは、欲しいと思うから、それは欲ではない。ね、我欲じゃない。私どもが、ただ当たり前に、あれが必要なものを必要に応じて欲しいと思えば、それがたちどころに集まって来る。
んなら、教祖の神様がです、思いなされば尚更のことだろうけれども、なら、教祖様はそのお粗末な御地盤でもです、それこそ最高なものとして身につけてお出でられた、神様の御物として身にお付けになっておられたということになりますですね。どんなに破れた袴であっても、ボロボロになっておっても、素晴らしい袴に見えれば、それでいいんじゃないでしょうか。
昨日の御理解をね、もう一段深めると、そういうことになりますですね。というようにです、なら、ここで皆さんが御理解を頂いて下さる。その御理解を、ただ親先生の話とせずに、なるほど、神様の叡智によらなければ、あんなお話は説けない。あんな難しい御理解をあのように、しかも繰り返しは説けない。なるほど、神の声だなと分からせて頂いて、おかげを頂かれる時に、ね、その神の声に素直に耳を傾けることになり、それが生活の上に現れて来る時にです、私は今日の御理解を、ね、改めて頂き直すのです。ね。
なるほど、匹夫の凡夫からのことですから、ね、下から上に水を流すように難しいけれども、神の声を聞きながらの精進であるから、出けんことはない。さあ、人間きつい時もあるけれどもです、そこに神の心にチラッと触れさせて頂けれるのが合楽だ、と。
どんな難儀な問題を持って行っても、ね、合楽にお参りをさせてもらう、御理解を頂くとそれこそ昨日の私の、ね、3時前の5分間じゃないですけれども、体がきつい、だるい、頭が重たい。さあ、これから研修せんならん。その研修が本当に、またきついような感じがするけれどもです、ね、(ひだかりや、こそりともせぬながろうか)という句を頂いた時にです、神様が、私が今、なら修行をしておることを、心の状態をご承知である、神様が見ておって下さるのだと思うた途端に、私の体は、ね、新しい血でいっぱいになる。
有り難いもので、頭がいっぱいになる。そこから、まあ、言うなら(明晰?)とでも申しましょうか、はっきりと、なら、また改めて昨日の朝の御理解を研修することが出来るんです。ね。下から上に水を流すのは難しい。けれども、そこにはです、ね、神の声を素直に頂く気でおりますと、神様が必ずそういう働きを見せて下さる。だから、辛抱が出けないところでも、辛抱が出けるというわけです。
その辛抱をさせて頂くうちは、徳が受けられるとあります。徳が受けられた時に、もう神の分子、神の一部分、言うならば神の氏子としての御徳が身について参りますから、ね、人間の性は善なり。人間は、もう生まれながらにして神様であるということをです、叙述に、ね、我情我欲が付いておった何十年間の間に、それが段々、ね、薄れてくる、取れてくる。
そして、言うならば、神様に頂いておる性は善である。ね。その性は神である。その神様に返って行くことが出来る。そういうことをです、私はこの御理解90節は教えておられる。その辛抱をして行くうちに、その辛抱して行くうちに、そのところを楽しゅう、有り難う出けるということを、今日は聞いて頂いたわけですよね。どうぞ。